Jyotishで世界を観察し始めて4年弱。ますますいちいち外側の物事に驚かなくなっていく自分に、頼もしさを感じることもあれば変化していく寂しさを覚えることもある。2011年、24歳でプロの占い師になった。その時はまだJyotishで世界を観察していなかったわけだが、ご依頼者さまの人生のさまざまなケースを観察させていただくたびに、私自身の視野や世界も拡張されていった。

人それぞれにさまざまなもって生まれた特殊なカルマ、特殊なリズム、特殊な反応があり、それらが他者と重なったり重ならなかったり反発したり時に潰しあったりもする。化学反応を起こしてスケールの大きいことに発展したり、大成功したり、大失敗したり。ただそれだけが、続くだけのこと。生きるとはきっとそういうことなんだ。そんなことを20代のある意味まだまだ多感な時期に、占い師として活動する中で学んだ。

占いが、何故古代から現代まで必要とされ続けているのか?

それは人間に知性が宿ってしまっているからと私は考える。人間だけ(おそらく?)が「不安」「理想」「過去」「未来」などを、脳内に描くことができる。そしてそれらへの多様な対処法を考え出すことができるのだ。この地球上で「占い」やってるの、今のところ人類しかいない。他の生物で占いしてる生物はいないですよね。もしかしたら今後高度なAIがこの占い的な領域を独占しに来るんじゃないか?とだいぶ前から思っているし、その事によって人類全体が脳みその余計な容量を食わずに、幸福になるのであれば、中途半端な占いや占いの仕事(のようなもの)は滅んでしかるべきではないか?と考えている。その時代の変化の中で、自分の考える最高の占いや生き方を突き詰めるのみである。

目の前のケーキが、ビールが、餃子が、ラーメンが美味ければ、好きなだけ食べればいいのだ。食べて食っちゃ寝すればいいのだ。めちゃくちゃに気持ちいいから。神様はなにも禁止なんかしていないのだから。

けれど先のことを考える人間は「好きなだけ食べたら着たい服が着られなくなる」とか「スタイル良いほうが可愛く(かっこよく)思ってもらえる」とか考えて、食べる量を本能的な欲望に走らずにセーブすることができるのだ。ある意味自然から離れた、作為を持つ主体的な行動を行うのである。

先々起こることに対して予測、準備することができる「占う」という行為は、人類の涙ぐましい努力の結晶である。人間が生物である限り、生物を操作している星ぼし(神々)に敵うわけがない。そんな大前提を受け入れながらも、今後も今生を命ある限り、めっちゃもがこうじゃないか。