見た目至上主義、それは”文化的”か? -正しく老いたがっていると或る占い師の雑記-
2023年8月24日私は2017年の終わりくらいから、2005年から12年暮らした東京を離れ、当時1歳半の子を連れて長野に引っ越した。
当時感じた東京と長野での生活の差。
「夜がありえないほど静か」とか「野菜と果物が新鮮で安い(時に頂ける)」とか「路上の花壇の花もやたら鮮やかで綺麗」とかもう挙げればキリがないのだが、「広告を見る機会が激減した」という気付きがあった。
思えば東京で暮らしていた時は、渋谷や新宿の眩しいそして繰り返しのサイネージ広告、電車内の広告など大量の広告が嫌でも目に入ってくる環境だった。そしてもう記憶が定かではないのだが、広告の大半は「人は〇〇が9割」とか「〜なさい!」でタイトルを〆る書籍の広告、あなたの英語力や年収大丈夫ですか?ってこっちの能力に疑問符つけてくる広告、そして二重にしない?シワ大丈夫?毛、なくさない?といった美容系の類の広告である。
長野に引っ越してパタリとこれらの広告を目にしなくなった。もちろん0になったわけじゃない。ネットの広告などを見ることはあるが、けれどやはり遭遇頻度は激減したのだ。
これにより私に何が起こったのか?というと、まず不眠症が治った。おそらく原因は複合的で「夜が静か」というのもあっただろうし、地元であるという安心感もきっとあったとは思うが、「接触する情報(広告)の量そのものが減った」というのはかなり大きかったと思う。
あと、長野は東京に比べて圧倒的に人口が少ない。一日に遭遇する人間の数も相当限られる。2021年に山に引っ越してからは尚のこと人間に遭遇しない。なので、自分と他人の造形とかスペックみたいなものを比べるシーンもない。街に出て「あ、あの人めっちゃ顔綺麗、スタイルい…(それに比べて私は)」とか、思う機会が激減したのだ。
東京(都会)には美が集結している。あらゆる競争の末、勝ち残った頂点の美である。これは12星座例えるとピラミッドの頂点を目指すタイプの土星や山羊座的な美であり、本当に一部の人間しか幸せにならないような熾烈な世界線の美だと思う。
私は2017年にそんな戦場から、当時は不本意ながら泣く泣く離脱した。引っ越しした長野の新居で「都落ちした〜;;」と号泣した夜がある。東京で暮らした12年の中で自分の居場所もポジションも築き上げたし、友人関係も全てがそこにあったから。しかし新生児育児をしながら戦場で戦い続けることは出来なかった。そして何よりも子供との健やかな時間の方が大事になった。
東京の戦場バチバチ感もそれなりに好きだったし楽しかったが、神様のシナリオ的にも別の時間軸と空間にシフトする時期だったのだ。
かくして、戦線離脱して早6年。人の美と自分の美を比べて落ち込むことはほぼなくなったし、美容系の事に関することを考えている時間も少なくなって、私は他のことに時間を更に使うようになった。
じゃあアイビーくん、あなたは何もそういうことやってないの?と言われると、
白状しますと脱毛と顔のイボ・ほくろ取り、一回だけピコレーザーっていうシミ取りレーザーはやったことがあります!
二重顎の脂肪吸引については「やりたいな〜;;」って気持ちがたかまって詳しく調べた事があったけど結局施術には至らず、Youtubeで人気の二重顎撃退体操を日々コツコツやっているにとどまっている。(これがめちゃくちゃ効果あって、2日やっただけで久々に会った親に「なんか顔痩せない??」とがっつり気が付かれるほどなのだ)
あとは日々のコツコツのみ。私は母親と肌質が非常に似ており、母親の感じを見ていると多分シミになりやすい。だから高校生くらいからUVケアだけはかなり徹底しており、基本に陽が出ているシーンは日焼け止めするし、できるだけ直射日光に当てないように羽織物するし、日傘を出来るだけ差している。栄養バランスの取れた食事と、一日8時間以上の睡眠である。化粧を落とさずに寝た記憶はほぼない。
生まれ持った肌だけはずっと大切にしている。出来るだけ自分が考える「美しい状態」ではありたい。日焼けは単純に肌が痛い。
上記以外は特に何もしていない。今後もおそらく特に顔の造形をかえる整形的なこともしなければ、アンチエイジング的な施術をする予定もない。
私は正しく、生物として老いたい。
孫とか曾孫とかに 「ふふ、、おばあちゃん昔はこんなにイイ女だったのよ」って若かりし頃の写真見せて子孫驚かせたいから、生物として正しく老いる必要がある。時間経過が持つ美しさを見せたい。体現したい。
これが今現在、自身がたどり着いた答えである。
私は大学時代に文化人類学のゼミにいたのだが、その関連で「美容整形」や「身体装飾」に関する授業を取っていたことがある。どの文脈でその言葉に落ち着いたのかは忘れてしまったのだが講師が
「美容整形などをして外見がいくら変わったとしても、内面の問題は変わらない。むしろ本質的な問題に更に向き合わざるを得なくなる」というようなことを言った。
何故かこの言葉だけすごく印象に残っており、当時の私も直感的に「きっとそうだ」と思った記憶がある。
とはいえ、正直(シーンごとに)「好まれるルックス」というものは存在する。
私はシルクロードの商人たちについて調べるのが好きなのだが、シルクロードの商人たちが身につけておかなくてはいけない教養・技能というものは多岐に渡る。まず、夜空を見て星を読めなきゃいけない。そうしないと目的地にたどり着けない。また、シルクロード上では多言語が飛び交い、頻繁に多文化接触がある。多くの外国語に精通する必要があり、また交渉を優位にするように自分をプレゼンする表現する基礎的なコミュニケーション能力も必要。繁栄ある場所には邪も多くあり、シルクロードの商人は時に盗賊とも戦う!仮に本人が戦闘しなくても用心棒を雇うだけの資金力や交渉能力も必要になる。そしてこれは少し前の「コミュニケーション能力・プレゼン力」云々の話にもつながるが、
初見で「こいつ、安全か?」「こいつ、こっちに利益をもたらす存在か?」が、相手に伝わらなきゃいけない。
し、自分も相手が安全で利益をもたらす存在か?を見極める必要がある。
これはシルクロードの商人が自分たちが扱う商品を見極めるために必要な能力でもある。審美眼のことだ。
この審美眼、何かを見極める能力がないとシルクロードの商人たちはあからさまに食いっぱぐれるわけだし、判断のミスで簡単に死ぬ世界線で暮らしていたはずなのだ。
安全か?というのは最低限の清潔感のことだったりするだろうし、安心感を漂わせていること。そして利益をもたらす存在か?というのは目的に依るとは思うが「見た目から放たれる説得力」のことだろう。用心棒なら「強そう」であってほしいし、踊り子さんなら「美しい!!」が直感的に脳髄(的な場所)に入ってくる必要がある。
ここからは推測になるが、おそらくシルクロードの商人たちは商品が持つ美と人間が持つ美、この違いをしっかり理解して「人間が持つ美」もちゃんと愛でていた、賢人中の賢人だったのではと考える。
私は時にシーンによって”商品”ではあるが、長い目で見ればまったく商品ではない、生物としての人間なので時間(カーラ)すなわち神に変に逆らうことはしないでおこうと思う。
「経年変化の美」に対して「美しい」と感じられる感性の方が”文化的”だと思うし、それがこれから来る、冥王星水瓶座時代が表す、「本当に美しいものは形がない(変化する)」の美だと思うから。